Aaron Swartz さんのエッセイ、“HOWTO: Be more productive” の日本語訳です。Aaron くんは、ティーンエージャーにして W3C のコア・ワーキング・グループのメンバーで、RSS 1.0 仕様書の共同執筆者のひとりとしても知られる、才気煥発のスーパーハッカーさんです。どうしたらより生産的な人生を送れるのかについて考察したこのエッセイは、2005年の末に彼のブログに掲載されたもので、多くの注目を集めました。プログラミングに限らず、クリエイティブな仕事をこころざすすべての人にとって有用と思い(日本語訳もまだ出てないみたいなので)、翻訳してみることにしました。「この翻訳について」で案内しているフォームから、ご意見・ご感想などもお寄せください。
2006年2月26日
「君がテレビを見てた時間をぜんぶ合わせれば、」そいつは言った「いまごろ長編小説の一本も書けてたはずだ」。これにはたしかに反論しがたいものがある。テレビを見てるよりは小説を書くほうが時間のいい使いかただというのは疑いようもない。だけどちょっと待てよ? この手の言い分は、まるでテレビを見てた時間を、小説を執筆する時間にたやすく置き換えられるみたいな言いかただ。残念なことに、事実はそうじゃない。
時間の質には程度の差というものがある。地下鉄の駅まで歩いている途中で、ノートも持っていないようなときに小説の続きを執筆するなんてのは至難の業だ。また、しょっちゅうだれかに割り込まれるようなときに集中しつづけるのもむずかしい。精神状態の要素もからんでくる。いい気分でやる気もあって、いっちょやってやろうかというときもあれば、落ち込んでたりくたびれてたりして、テレビを眺めるくらいしかできないというときもある。
だからより生産的になろうというのなら、この事実を認識して、そいつとうまくつきあっていかなきゃいけない。第一に各種の時間をできるだけ有効利用するということ、そして第二に、時間の質をより高くするよう心がけるということだ。
人生は短い(聞いたところによるとね)。それならくだらないことに時間を費やしている理由がどこにある? あることがらに、手ごろだからという理由でとりかかるのは簡単だ。だけどつねにそのことについて自問するべきだ。自分ができることでもっと重要なことがあるんじゃないのか? どうしてそのことじゃなくて、かわりにこれをやろうとしてるんだ? こうした問いかけに正対するのは厳しいことだけど(このルールに従うと、ついには自分はどうして世界でもっとも重要な問題に取り組んでいないんだろうと自問することになるわけだし)、この小さな積み重ねが人をより生産的にしてくれる。
これはべつに自分の生涯を世界でもっとも重要な問題にささげろといってるわけじゃない。僕だってそこまでやってるわけじゃないからね(こんなエッセイを書いたりしてるわけだし(訳注: それを訳したりしてるわけだし))。だけど自分の生きかたを評価するときにはこれを絶対の基準にしている。
もうひとつの神話は、たったひとつの問題にのみ取り組んでいるときに、人はより多くを成し遂げるというやつだ。僕はこれはまず間違ってると思う。いまこの瞬間だって、姿勢を変えたり、体の筋を伸ばしたり、なにか液体を飲んだり、デスクを整理したり、兄弟とインスタント・メッセンジャーをしながら僕はこのエッセイを書いている。きょう一日を通してみれば、このエッセイを書き、本を読んで、食事をして、メールにいくつか返信、友達とチャットをして、買いものをしてきて、べつのエッセイをいくつか、ハードディスクをバックアップ、それに蔵書目録の整理をした。週を振り返ってみれば、いくつかのソフトウェア・プロジェクトでコードを書いて、本も何冊か読み、プログラミング言語の勉強をいくつか進めて、家具の配置を変えたりもしている。
プロジェクトをたくさん抱え込むことで、いろいろな質の時間にかかわることができるようになる。くわえて、行き詰まったときや飽きてきたときに、べつの作業をすることができるようにもなる(しかもそれをしている間に行き詰まった状態から脱することができる)。
いろいろやるということは、人をより創造的にもする。創造性は、ある仕事にべつの領域で学んだことを適用するところからやってくる。ことなる領域からなるさまざまなプロジェクトを抱えていれば、よりたくさんのアイデアを活かせるようになるだろう。
たくさんのことがらを進めるのについていくのがしんどくならないようにしなくちゃいけない。人はやり遂げたいことをたくさん抱え込んでしまいがちだ。しかしすべてを頭の中にしまいこんでおこうとすると、それはあっという間にふくれあがってしまう。ぜんぶ覚えておかなきゃというプレッシャーで頭がおかしくなってしまうかもしれない。解決策はまたもやシンプル。メモっておけ、だ。
やりたいことをぜんぶ箇条書きにしたら、それを種類別に整理してもいい。たとえば、僕のリストはこうなっている。プログラミング、書く、考える、おつかい、読む、聞く、観る(順番もこのとおりだ)。
たいていの規模のプロジェクトでは、いくつものことなるタスクが関わってくることになる。このエッセイを例に挙げると、先延ばしの心理について書いているほかの記事を読んだり、記事の新しい節を考えたり、文章を推敲したり、問題について人びとにメールしたりといったようなことが、本文を書くというじっさいの作業にくわえて発生する。それぞれのタスクは適切に分類しておいて、ふさわしい種類の時間がきたときにできるようにする。
ひとたびリストができあがったなら、問題はそれを見るのを忘れないようにするということになってくる。そのためのいちばんの方法は、なにかしようというときにそれが必ず目に入るようにしておくということだ。たとえば、僕のデスクには本が積んであるけど、これはいま読んでいるものがいちばん上になるようにしている。本を読みたくなったら、いちばん上のやつを手にとればいい。
僕は同じことをテレビや映画についても実践している。これは見なくちゃ、というような映画を知ったときには、その情報を自分のコンピュータの特別なフォルダに置いておく。そしてなにか見たくなったときには、そのフォルダを開けてみる。
僕はもっとおせっかいなやりかたも考えてみたこともある。たとえば、どこかのブログをチェックしようとすると「to read」(読むべし)フォルダに置いてある記事の一覧を自動的にポップアップするようなウェブページとか。さらには自分がだらけないよう、ときおりやることを提案してくるようなポップアップ・ウィンドウなんてのも。
ここまで書いてきたことだけでは、ある時間の最良の使いかたができるようになったにすぎない。もっと重要な問題は、より質の高い時間を自らの手で作ることだ。人の時間のほとんどは、学校や仕事といったことで食いつぶされてしまう。もちろんいちばんいいのはそれらに従事するのをやめてしまうことだけど、そうするほかにはなにができるだろう?
僕の知り合いで機知のある人たちというのはみんな、小型のノートやそれに類するものをいつも持ち歩いている。ペンと紙というのは、どんな状況にあってもすぐに役に立ってくれる。人になにかを書いて説明したり、メモを取ったり、アイデアを書き留めたり。僕は地下鉄で記事をまるまる書き上げてしまったこともある。[^sub]
(これを実践してたのは以前までで、いまはどこにでも携帯電話を持ち歩くようにしている。これだと人になにかを書いて渡すといったことはできなくなるけど、そのかわり読まなきゃいけないような記事を(メールで送って)いつでも読めたり、メモを受信トレイに送信しておいたりできる。そうしておけば、目に触れざるをえなくなるからね。)
多大な集中を必要とするような作業では、割り込まれるようなことは避けなければいけない。単純な方法としては、邪魔者に見つからないようなところに行ってしまうというのがある。もうひとつの方法としては、周囲の同意を取り付けておくというのがある。「ドアを閉めているときには邪魔をしないでくれ」とか「インスタントメッセンジャーは僕がヘッドフォンをしているときにしてくれ」とか(そうしておけば、時間が空くまでメッセンジャーを無視しても大丈夫だろう)。
無理はだれだってしたくない。ときには、時間をもてあましていて、ぜひ割り込んでいただきたいというようなときもあるだろう。座ってニュースを読んでいるよりも、困っているだれかの助けになってやるほうが時間の使いかたとしてはずっといい。あらかじめ同意を結んでおくのがいいアイデアだという理由がそこだ。本当に集中しているとき以外は、割り込んでもらえるわけだから。
空腹だったり、疲れていたり、落ち着かなくなっているときというのは時間の質が低いときだ。その解消法は単純。食事、睡眠、そして運動だ。とはいえ僕はこれがなかなかできないでいる。僕は外食が好きでないので、空腹になっても作業を続けてしまい、ついには食事に出る元気もないというくらいにまで疲れ果ててしまうというのがたびたびだ。[^t]
「疲れてるのはわかってけど、寝るわけにはいかない――やらなきゃいけないことがあるから」。ついそう考えてしまいがちだ。睡眠をとっていればその日の残りの時間の質も高いものになるし、それにどうせいつかは寝なくちゃいけないわけだから、じっさいにはそうしたほうがずっと生産性は上がっているはずなのに。
じつをいうと僕はそんなに運動してるわけじゃないので、たぶんこの点に関してはアドバイスするのにはふさわしくない人間なんだけど、それでもできるところでは体を動かすようにはしているよ。寝そべって本を読んでいるときに上体を起こしたり、徒歩でどこかに向かうというときに走ったり。
メンタルな制約を解消するのはものすごくむずかしい。その助けとなることのひとつは、愉快な友達を持つということだ。たとえば、僕は Paul Graham(訳注: ハッカーのえらいひと)や Dan Connolly(訳注: HTML のえらいひと)と話すといつもやる気が出てくる。かれらはエネルギーを発している。大仕事をやろうというときには、人を避けて部屋に引きこもる必要があると思いがちだけど、これはやる気をくじくから、じつはかえって能率が悪くなるんだ。
友達がそんなに愉快なやつじゃなかったとしても、ほかのだれかと一緒になってやることで、困難な仕事というのはずっと乗り越えやすくなるものだ。心理的な重荷が両者に分散されるし、それにもうひとりがいることで、邪魔されるどころか、仕事に取り組む気を起こさせるようになる。
しかしいま書いてきたようなことは、すべて問題の回避策だ。人びとが抱える、生産性にかかわる本当の問題というのは、先延ばしだ。これは、ちょっとした、忌まわしき秘密といったようなものだが、しかしみんな、ものごとを先延ばしにしている――しかもとんでもなくね。これはなにもあなたに限ったことじゃない。だけどだからといって克服する必要がないというものでもない。
先延ばしとはいったいなんだろう? 傍から見れば、あなたは仕事や勉強をするかわりに、なにかべつの「楽しい」こと(ゲームをするとか、ニュースを読むとか)をしているにすぎない。(そしてあなたのことをなまけもののの悪い子だと思うだろう。)しかし本当の問いはここからだ。あなたの頭の中では、いったいなにが起こっているのか?
僕はこのことを説明しようとずいぶん時間をかけたんだが、僕にできる最善の解説というのは、人の脳が、仕事のまわりに精神的な障壁のようなものを築くんじゃないかということだ。磁石をふたつ近づけて遊んだことある? ふたつの磁石を同じ向きに合わせて近づけると、磁石はものすごい力で反発する。磁石をあちこち動かしてみると、磁力の境界線みたいなものを感じることができるはずだ。磁石同士を近づけようとすると、磁場は相手を反対側に押し返すか、あるいは自分のほうで逃げていこうとする。
精神的な障壁も同じようなものなんじゃないだろうか。はっきりと触ったり見たりはできないけど、その境界線のようなものを感じることができる。近づけば近づくほど強い力で押し返してくる。そしてその当然の帰結として、反対側に行ってしまうんだ。[^s]
そしてちょうど反発しあうふたつの磁石を並べるのがものすごくたいへんなのと同じように――ふたつの磁石は手を緩めるやいなや跳びすさってしまう――、この精神的な障壁には、薄弱な意志の力ではとうてい打ち勝つことができない。かわりにずるをして、磁石をひっくり返すことになる。
なにがこの精神的な障壁を作りあげるのだろう? それにはたぶんふたつの大きな要素が関係していると思う。その仕事が困難であるということと、それが割りあてられたものであるということだ。
困難な問題のひとつは、大きすぎる問題だ。レシピ管理のプログラムを作ろうとしたとする。椅子に座るなりいきなりレシピ・オーガナイザーを書きあげられるやつなんていない。それはゴールであって、タスクじゃない。タスクというのは、ゴールに近づくための、はっきりとして具体的なステップのことだ。まともな第一のタスクというのは「レシピを表示するスクリーンのデザインをスケッチしてみる」とか、そういったようなことだ。それくらいなら手の出しようもある。[^nc]
これができれば、次のステップがより明確になってくる。レシピを構成する要素にはどういうものがあるか、どのような検索機能が必要か、データベースをどのように構築するか、などを決めていかなければいけない。あるタスクが次のタスクを導くことで、はずみがつく。ある案件を頭の中でこまかく切り分けていくことで、その案件にまつわる問題は解決しやすくなっていく。
大きなプロジェクトごとに、僕はそこでできるあらゆる次のタスクを考えては、分類分けされている(前述の)To Do リストにそいつを追加する。そして、なんらかの理由で作業を中断したときに、そのリストにさらなるタスクを追加していく。
困難な問題のもうひとつは、あまりに複雑すぎたり、厄介すぎる問題だ。本を一冊書きあげるなんて考えるとうんざりするから、ひとつエッセイを書くというところからはじめる。エッセイも手にあまるというようなら、一段落の概要を書いてみる。大切なことは、とにかくいますぐになにかをするってことだ。
ひとたびなにかをやり始めたら、それをもうすこし正確に把握し、問題をよりよく理解できるようになる。まっさらなところから始めるよりは、すでにあるものを改善することのほうがずっとやさしくもなっている。一段落をうまく書けたのなら、そこから一本のエッセイなり、一冊の本なり、少しずつ、適切な分量の文章へと成長させることもできるだろう。
いくつかの思いつきが難問を解く鍵となることもしばしばだ。その領域に明るくないのなら、ぜひともそれについて調べてみるべきだ。ほかの人びとがどうやって問題を解決しているか、そのコツをつかむんだ。腰をすえてその領域をすっかり理解するところまでやってみる。理解できたかどうか、やさしめの問題を解いて確認もしてみる。
割りあてられた問題というのは、人からこれこれをやるようにと言われた問題のことだ。「動機付けさせられて」なにかするという場合、人はすすんでそれをやるようなことはなく、その成果も芳しくないということが、いくつもの心理学の実験から明らかになっている。報酬にせよ懲罰にせよ、外部から与えられた動機というのは心理学用語でいうところの「内発的動機付け」――問題に対して抱く自然な興味というやつ――を殺してしまうのだ。(このことは社会心理学でもっとも繰り返し確認されていることのひとつで、70以上もの研究で、報酬はタスクに対する興味を損なうものであるということが述べられている。)[^kohn] どうやら人の脳みそというのは、やれと言われてやることには深い忌避を感じるものらしい。[^avo]
不可解なのは、この現象が他人から言われた場合のみに限られず、やろうと自分で決めた場合でも起こるということだ。「X をやらなくちゃ、これはもう今すぐにもとりかからなければならない最重要事項なんだから」と自分に言い聞かせる、するとたちまち X はやり始めるのが世の中でいちばん億劫なものになってしまう。ところがここで Y が最優先事項になると、当の X のほうはずいぶんととりかかりやすいものに見えてくる。
わかりやすい解決策としてこういうのがある。X をやらなければならないとする、そういうときに、Y をやらねば、と言い聞かせる。残念なことに、故意に自分をだますというのは、そうと本人が自覚してる以上なかなかむずかしいものがある。[^feyn] ここは変化球で攻めてく必要があるだろう。
手としては、ほかの人からなにか自分に課してもらうという方法がある。卒業論文を抱えた学生がいい例だ。卒業するには避けて通れない、とほうもない困難。それゆえに学生たちは、それ以外であればどんな困難でもすすんでやるというまでになってしまう。
課してもらうタスクは、一見重要(やらないと卒業できないとか)かつ壮大(何百ページもの努力の結晶)ではあるが、じつをいうとそうでもなく、うっちゃっても大惨事にはならないようなのが望ましい。
「さあ、ほかのことにかまけてる場合じゃない、机にかじりついてでもこのエッセイを完成させなきゃ」ついこう考えてしまいがちだ。さらにひどくなると「それじゃこのエッセイを書きあげたらだな、キャンディをご馳走してあげよう」などと自分に買収までもちかける。ところがだれかにやれといわれてなにかやるというのは、もっともまずいやり方なのだ。
「すべてを自分で成し遂げる」――甘い響きだが、しかしこういうのはかえって逆効果だ。どの場合でも、自分で自分にタスクを課しているところに違いはない。そうなれば、脳はそこから逃れるあらゆる手立てを講じるようになるだろう。
いわれているとおり、たいへんな仕事というのは楽しくなさそうに見える。だけどじつは、それは僕がやることの中でいちばん楽しいことなのかもしれない。困難な問題は、それに挑むものを飲み込んでしまうというばかりじゃない。その先には、重要なことを成し遂げたというすばらしい感覚が待っている。
だから、自分になにかさせようというときの秘訣は、自分に対してしなきゃいけないんだと説得するんじゃなくて、それは楽しいことだと説得するということなんじゃないだろうか。そしてもしそれが嘘になるようであれば、楽しくする必要があるんだ。
大学でエッセイを書かなきゃいけなかったとき、最初僕は深刻になっていた。エッセイを書くのはとりたててたいへんなタスクというわけじゃない。しかしそれが割りあてられたんだ。勝手に決められた本2冊の見解を結び付けろといわれて何ページも喜んで書けるやつなんている? そこで僕はエッセイを自分流のジョークに仕立てあげることにした。たとえばあるとき、僕はエッセイの段落にぜんぶ独自の文体を持たせてやろうと考えた。それぞれが、できるだけいろんな演説の形式を再現したものになるようにしたんだ。(これには、課題の分量を水増しできるという利点もあった。)[^ex]
ものごとを面白くするもうひとつの方法は、問題をメタレベルで解決してしまうことだ。ウェブ・アプリケーションを作るかわりに、ウェブ・アプリケーションのフレームワークを作ってアプリケーションはそのサンプルということにしてしまうとか。こうするとタスクがより面白くなるというだけじゃなく、その成果もより役に立つようなものが得られるようになる。
生産性にはさまざまな神話がつきまとう。時間は交換可能であるとか、集中することはよいことだとか、自分へのご褒美が効果的だとか、きつい仕事は楽しくないとか、先延ばしはよろしくないとか。だけどそういったことはみんな、あるテーマを共有している。現実の仕事というのを、人の生来の気持ちに逆らったものとみなす概念だ。
たいていの人にとって、またたいていの仕事に対して、これはあたっているのかもしれない。くだらないエッセイだとか、意味のない書類の整理だとかをするのにやる気をそそられなきゃいけない法はない。社会がとにかくやれと命じたのなら、やめちまえとささやく頭の中の声には耳を貸さないようにすることを学ぶ必要がある。
だけど、やりがいのあることや、クリエイティブなことをやろうというのなら、脳みそをシャットダウンさせるなんてのはとんでもなく間違ったやり方だ。生産的になる本当の秘訣というのはそれとは正反対のところにある。自分の身体に耳を傾けるんだ。腹が減ってたらなにか食えばいい、疲れていたら眠ればいい、飽きてきたら休憩すればいい、楽しそうで興味のわくプロジェクトなら進めていけばいい。
すべてはあまりにも単純なことのように思われる。へんてこな略語だとか、意思決定とか、成功した実業家からの推薦状なんてのは関係ない。それは常識のようなものだといってもいい。ただ世の中の仕事の定義が、僕らを間違った方向に押しやってしまう。生産的になりたいのなら、踵を返して正しいほうを見据えるだけで十分なんだ。
動機付けの心理学についてもっと知りたければ、Alfie Kohn の著作に勝るものはない。彼はこの問題についてたくさんの記事を書いているし、まるまるそれについての本、Punished by Rewards(邦訳、アルフィ・コーン『報酬主義をこえて』)も書いていて、僕のおすすめだ。
いつか僕も、学校を辞めてしまうという選択肢についてエッセイを書いてみたいと思うけど、これについてはまず The Teenage Liberation Handbook を手にとってみるべきだ。コンピュータに携わっている人なら、 Y Combinator の資金援助を受けて独立するという手もある。それから、Mickey Z の本、The Murdering of My Years では、やりたいことを追求しながら経済的にどうやりくりしているのかについて、アーティストや活動家たちの言葉を特集している。
[^sub]: 信じる信じないは自由だけど、僕は地下鉄で本当に一本書きあげちゃったんだ。仕事がはかどらない理由を挙げるのは簡単だ。次のアポが差し迫ってるとか、下の階の連中が騒々しいとか。だけど、ひらめいてしまったときなら、うるさい地下鉄に乗っててあと数分で降りて歩いていかなけりゃならないようなときであろうとものを書くことができるんだってことが僕にはわかった。
[^t]: 同じ問題は睡眠についてもいえる。眠る力も残ってないほど疲れきってしまうなんてのは最悪だ。ゾンビにでもなってしまったんじゃないかという気がしてくる。
[^s]: 僕はこれと同じ現象をべつのところでも体験することに気づいた。人見知りだ。僕は、会ったことのない人に電話をかけたり、パーティーでだれかに話しかけに行ったりするのが億劫になってしまうことがよくある。すると、僕のまわりにはやっぱり同じ精神的な障壁ができ、僕をそこから遠ざけようとする。これは人見知りもまた、問題のある幼年時代の結果という特性があるからなんじゃないかという気がしている(「割りあてられた問題」を参照)。もちろんこれは、推測の域をでないことだけど。
[^nc]: ここで僕が使っている、「次の具体的なステップ」というのは、David Allen の Getting Things Done(邦訳、デビッド・アレン『仕事を成し遂げる技術――ストレスなく生産性を発揮する方法』)からきてるんだけど、ここに書いている原則は(無意識にといってもいいくらいに)、ほとんどエクストリーム・プログラミング (XP) で用いられているものになっている(訳注: プログラムの開発方法論のひとつ)。エクストリーム・プログラミングはプログラムを管理するために開発された方式だけど、僕はそれが先延ばしを脱却するための有効なアドバイスになるってことに気づいた。
たとえばペア・プログラミング(訳注: エクストリーム・プログラミングで提唱されている実践項目のひとつで、ふたりのプログラマが一台のコンピュータを使い、コーディングとその評価を協力しておこなう)は、質の低い時間において有意義な効果を人にもたらすばかりでなく、両者に精神的な重荷を自動的に分散させる効果がある。プロジェクトを具体的なステップに分割するのは XP のもうひとつの鍵となる部分だけど、これは(「単純にする」で後述する、)できるところからすぐにとりかかってそれを改善していくというやり方とおんなじだ。こうしたことはなにもプログラミングに特化したことじゃないんだ。
[^kohn]: その目を見張るあらましについては、Alfie Kohn の著作 Punished By Rewards(邦訳、アルフィ・コーン『報酬主義をこえて』)で読むことができる。僕がここで主張してることは、彼の記事 Challenging Behaviorist Dogma: Myths About Money and Motivation から導かれたものだ。
[^avo]: 僕は最初このことをたんに生物学的なものだと考えていたんだけど、 Paul Graham はむしろそれは学習的なものなんじゃないかと指摘していた。小さいころに、両親は子供をなんとか手なずけようと試みる。親たちは宿題をしなさいというが精神は自由にのたうちまわり、なにかほかのことを考えようとする。こののたうちまわることがすっかり習慣になるんじゃないかと。まあどちらにしても、こいつは矯正しがたい問題になってしまう。これをあらためるのは僕にはお手上げだ。いまはその周辺に手をつけるようにしている。
[^feyn]: リチャード・ファインマンが、自分の夢について観察しようとしていたときの話を書いているが、僕が自分自身の先延ばしの心理を観察しているときも同じような感じだった。ファインマンは、毎晩眠りに落ちるときに自分自身になにが起こっているかを観察しようとしていた。
(略)それはある夜例のごとく夢を見ながらその観察をしていたときのことだ。(略)と、僕は自分が上向きに寝ていて、真鍮の棒を枕にしているのに気がついた。頭のうしろを触ってみると、これが柔らかい。僕はそこで、「ははあ。この真鍮の棒が僕の視覚領を刺激していたから、夢の観察ができたのに違いない。この棒を頭の下において眠りさえすれば、好きなときに観察ができるんだから今はこれでもうやめにして、もっと深い眠りにおちることにしよう」と思った。
あとになって目が覚めてみると、真鍮の棒など影も形もないし、僕の頭のうしろも、ちっとも柔らかくない。ということは、おそらく僕の脳が睡眠中の観察に疲れてきて、これを中止する良い口実を作りだしたのに違いなかった。
(リチャ-ド・P・ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん』大貫昌子訳、62ページ)
人の脳は、思ったよりよくできているものだ。
[^ex]: たとえば、「比べてみると、Riis はさほど多くの人物から引用はしていない。」と書くかわりにこんなふうに書く。「Riis に関しては、しかしながら、対人の口述からなる同時代の民族誌を書物として出版できるような報告書へと編纂するのに必要とされる技量面での個人的な才能の欠如によるのか、あるいはたんに地域個別の報道特派員からの報告の選択肢の不足によるものか、比較結果の提示においては完全な失敗の様相を呈している。」
教授は悪文不感症にでもやられていたのか、僕がふざけてるということにはいっこう気づかなかった(その論文は僕の目の前で読んでもらったというのに!)。
created 2005-12-28T15:57:49
ご意見、ご感想、誤字・誤訳のご指摘等は Masaaki Shibata まで Visitor's Voice よりお寄せください。よりよい訳をめざして適宜改訂していきたいと思います。
誤字や言い回しの訂正などの小さな変更はここに掲載していなくても随時行っています。
最後になりましたが、日本語訳の公開を快諾してくれた Aaron Swartz さんに感謝します。
このサイトについてのお問い合わせは Visitor's Voice よりお寄せください。